「このファイルのどこが変わったんだっけ…?」
膨大な資料を前に、新旧2つのファイルを並べて間違い探しのような作業をした経験、あなたにもありませんか?特に、規制やルールが頻繁に変わる業界では、この「地味で大変な作業」がビジネスのボトルネックになることもしばしば。今回は、そんな課題の最前線にいる保険業界で起きている、生成AIによる静かな革命についてご紹介します。
データ分析の巨人Verisk社が、AWSの生成AIプラットフォーム「Amazon Bedrock」を使って開発した新ソリューション。これが、私たちの働き方を考える上で、非常に示唆に富んでいるのです。
毎週75種類!保険のプロを悩ませていた「書類の山」との格闘
損害保険会社には、ビジネスを続ける上で絶対に守らなければならないルールがあります。それは、業界の基準となる保険料率や約款(保険の契約内容)の改定に、自社の保険商品を準拠させること。この基準を発行しているのが、ISO(Insurance Services Office)という機関です。
問題は、このISOが発行する改定通知(サーキュラー)が、なんと毎週75種類以上にも及ぶこと。担当者はこれまで、これら全てに目を通し、自社に関係する変更点を見つけ出し、新旧の文書を目視で比較するという、非常に骨の折れる作業を強いられてきました。
- 一つの案件に数時間、時には数日かかることも。
- 当然、人為的なミスも起こりやすい。
- 対応が遅れれば、新商品の投入が遅れたり、最悪の場合、保険料の不足による損失(プレミアムショートフォール)に繋がるリスクも抱えていました。
テクノロジーが進化する現代において、あまりにも非効率でリスクの高いこの状況を、どうにかできないか?そこで登場したのが、生成AIを活用したソリューション「Verisk Rating Insights」だったのです。
解決策は「AIアシスタント」。話しかけるだけで、数日かかった作業が数秒に
Veriskが開発したこの新しいシステムは、まさにゲームチェンジャーです。
担当者は、複雑な操作を覚える必要は一切ありません。まるで同僚に尋ねるように、「直近の改定で、補償範囲の変更点は何?」といった自然な言葉でAIアシスタントに質問するだけ。
するとAIは、膨大な文書の中から関連箇所を瞬時に探し出し、数秒から数分で変更点の要約や比較結果を提示してくれます。これまで数日かかっていた作業が、コーヒーを一杯淹れる間に終わってしまうのです。
これにより、専門家たちは単純な「情報の検索」作業から解放され、AIが示した変更点が自社のビジネスにどんな影響を与えるかという「情報の活用」に集中できるようになりました。
魔法の裏側:なぜAIは「嘘」をつかずに正確な答えを出せるのか?
「でも、生成AIって時々もっともらしい嘘をつく(ハルシネーション)ことがあるんじゃない?」
その通りです。特に、正確性が絶対条件のコンプライアンス業務で、AIの回答を鵜呑みにするのは危険です。Veriskのソリューションが優れているのは、このAIの弱点を「RAG(ラグ)」という技術で見事に克服している点にあります。
RAG(検索拡張生成)の賢い仕組み
RAGをものすごく簡単に説明すると、「超優秀な学生に、参照OKの教科書を持たせてテストに臨ませる」ようなものです。
RAG (Retrieval-Augmented Generation / 検索拡張生成) とは?
ChatGPTのような賢いAI(大規模言語モデル)が回答を作る際に、あらかじめ用意された正確な情報源(今回の場合はISOの規制文書データベース)を検索(Retrieval)させ、その内容を参考にするよう指示(Augmentation)を与えてから、回答を生成(Generation)させる仕組みのことです。
この仕組みのおかげで、AIは自分の知識だけで想像して答えるのではなく、必ず「根拠となる文書」に基づいて回答を生成します。そのため、ハルシネーションのリスクを劇的に抑え、情報の正確性と信頼性を担保できるのです。さらに、新しいルールが追加されても、データベースを更新するだけですぐにAIの知識を最新に保てるというメリットもあります。
この回答生成の頭脳部分には、処理速度とコストパフォーマンスに優れたAnthropic社の最新AIモデル「Claude 3.5 Sonnet」が採用されています。
Veriskの成功から学ぶ、AI導入「3つの鉄則」
この事例は、単に「すごい技術が登場した」という話に留まりません。これから自社でAI活用を検討する私たちビジネスパーソンにとって、重要なヒントが詰まっています。
鉄則1:課題を明確にする
「AIで何かやろう」という技術先行の考え方ではなく、「毎週のルール変更チェックが大変すぎる」という具体的で切実なビジネス課題からスタートしたこと。これが成功の最大の要因です。
鉄則2:最適な技術を選ぶ(流行りに飛びつかない)
AIの知識を更新する方法として「ファインチューニング」もありますが、彼らはコストや更新頻度を考慮し、今回のユースケースに最適な「RAG」アーキテクチャを選択しました。課題の特性を見極め、適切な技術を選ぶことの重要性を示しています。
鉄則3:餅は餅屋に。エコシステムを使いこなす
AIモデル、データベース、インフラなど、全てを自前で構築しようとせず、AWS Bedrockのようなマネージドプラットフォームを戦略的に活用。これにより、開発チームは面倒なインフラ管理から解放され、ビジネス価値の創造という本来の仕事に集中できました。巨人の肩に乗ることも、スピードが求められる現代では重要な戦略です。
まとめ:あなたの会社の「あの作業」、AIが解決してくれるかも
Veriskの事例は、生成AIが単なるチャットボットや文章作成ツールに留まらず、企業の競争力を左右する専門業務の中核にまで入り込んできたことを示す象徴的な出来事です。
重要なのは、AIが人間の仕事を奪うのではなく、人間を付加価値の低い作業から解放し、より創造的で戦略的な業務へシフトさせる強力なパートナーになる、という点です。
社内に眠っている膨大なマニュアル、過去の議事録、顧客からの問い合わせ履歴…。それらは、RAGの仕組みを使えば、会社の誰もがアクセスできる「賢い知識ベース」に生まれ変わる可能性を秘めています。
あなたの会社で、誰もが「面倒だ」と感じているあの定型業務。もしかしたら、その解決の鍵は、最新のAI技術の中にあるのかもしれません。


